2012年12月15日土曜日

お別れ

有馬温泉での夕食後、父からメールが入った。

「岡山の叔母が亡くなった。」・・と言う訃報。

突然の知らせに、ただ唖然。
信じられない・・と言う思いで、酔いが一気に覚めてしまった。

翌々日、お葬式に参列するために岡山に向かった。

叔母には一人娘のAちゃんがいる。
ずいぶん前に結婚し、今は10歳の男の子の母になっている従妹のAちゃんに何年ぶりかで再会した。
気丈に振る舞い接客をしているAちゃんを見ていると2年前の私を思い出した。

2年前の11月に「余命1年」と宣告され、私が看病の為に大阪に帰省中の12月、宣告から1か月後に他界した母。
昨日までそこにあった肉体が突然いなくなる・・と言う事実を理解できない、理解したくない身内の思い。

斎場までAちゃんの側についていて、戸惑いと悲しみを隠せない姿を2年前の自分とダブらせた。
骨を拾いながら叔母の冥福をお祈りした。


お葬式と言う行事はそんなに頻繁に関わることではない。
他人のお葬式に参列することはたまにあっても、身内・・それも自分の母親のお葬式とは一番悲しく、信じたくない日なのだと思う。
私も、かなり長い間、母の死を信じられなかった。
たぶん、今でも母を探している自分がいるので、事実をわかっていても受け止めていない部分がある。

人は誰でも1日ずつ、1秒ずつ死に近づいている。
母の死も、自分の死も、避けられないことであり、いつかはみんなそこに帰っていく。



今日、母の三回忌の法要が執り行われた。
この法要に参加する為に、私は息子と旦那をアメリカに残して大阪に帰ってきた。

丸2年なのに、何故三回忌・・「3回」なのか。
法要の後、浄土真宗の御坊さんが解りやすく説明してくださった。

人は生きていく上で、限りあるものに対して「欲」が湧く。
食欲、財欲、性欲、美や歳に対しての欲・・・
欲が湧くことによって、苦しみの種が生まれる。
生きていくことは苦しみを伴う作業だという。
「死」とは、その苦しみから解き放たれる瞬間なのだそうだ。

欲のある世界から欲のない世界、苦しみのある場所から苦しみのない場所に移行する儀式。
それが「お葬式」なのだそうだ。

苦しみのない世界に入って、1回目にする儀式が「お葬式」。
次の1年目が「一周忌」(これが2回目の儀式)。
そして2年目が3回目の儀式なので「三回忌」。

この世は苦しみだらけで、あの世は苦しみは全くないのか・・・と御坊さんの話を聞きながら、ふと思った。。

母と叔母は今頃、苦しみから逃れたあの世で再会しているのかな~と考えていた。