有馬温泉での夕食後、父からメールが入った。
「岡山の叔母が亡くなった。」・・と言う訃報。
突然の知らせに、ただ唖然。
信じられない・・と言う思いで、酔いが一気に覚めてしまった。
翌々日、お葬式に参列するために岡山に向かった。
叔母には一人娘のAちゃんがいる。
ずいぶん前に結婚し、今は10歳の男の子の母になっている従妹のAちゃんに何年ぶりかで再会した。
気丈に振る舞い接客をしているAちゃんを見ていると2年前の私を思い出した。
2年前の11月に「余命1年」と宣告され、私が看病の為に大阪に帰省中の12月、宣告から1か月後に他界した母。
昨日までそこにあった肉体が突然いなくなる・・と言う事実を理解できない、理解したくない身内の思い。
斎場までAちゃんの側についていて、戸惑いと悲しみを隠せない姿を2年前の自分とダブらせた。
骨を拾いながら叔母の冥福をお祈りした。
お葬式と言う行事はそんなに頻繁に関わることではない。
他人のお葬式に参列することはたまにあっても、身内・・それも自分の母親のお葬式とは一番悲しく、信じたくない日なのだと思う。
私も、かなり長い間、母の死を信じられなかった。
たぶん、今でも母を探している自分がいるので、事実をわかっていても受け止めていない部分がある。
人は誰でも1日ずつ、1秒ずつ死に近づいている。
母の死も、自分の死も、避けられないことであり、いつかはみんなそこに帰っていく。
今日、母の三回忌の法要が執り行われた。
この法要に参加する為に、私は息子と旦那をアメリカに残して大阪に帰ってきた。
丸2年なのに、何故三回忌・・「3回」なのか。
法要の後、浄土真宗の御坊さんが解りやすく説明してくださった。
人は生きていく上で、限りあるものに対して「欲」が湧く。
食欲、財欲、性欲、美や歳に対しての欲・・・
欲が湧くことによって、苦しみの種が生まれる。
生きていくことは苦しみを伴う作業だという。
「死」とは、その苦しみから解き放たれる瞬間なのだそうだ。
欲のある世界から欲のない世界、苦しみのある場所から苦しみのない場所に移行する儀式。
それが「お葬式」なのだそうだ。
苦しみのない世界に入って、1回目にする儀式が「お葬式」。
次の1年目が「一周忌」(これが2回目の儀式)。
そして2年目が3回目の儀式なので「三回忌」。
この世は苦しみだらけで、あの世は苦しみは全くないのか・・・と御坊さんの話を聞きながら、ふと思った。。
母と叔母は今頃、苦しみから逃れたあの世で再会しているのかな~と考えていた。
2 件のコメント:
この度は、叔母様がご逝去されたとの事、心よりご冥福をお祈り致します。又、叔母様の突然の死に遭遇され、2年前に亡くされたお母様の時と併せて身内の死を受け入れられない心情をお話して下さって有難う。私も父を亡くしていて、私の場合はもう30回忌を執り行いましたが、未だその頃の感情が鮮明に甦ってきますし、未だ私の心の中には父が住んでいて、一緒に生きてくれているのを感じます。
先日、母との葛藤について聞いて貰いましたが、少しは母との間を修復する方向で前に進もうという思いになりました。今ある生がある内に…。お祥さん、ありがとう。そして、貴女の優しさは、きっとお母様から戴いたものなのですね。きっと、貴女の事を見守って下さっていますよ。
Ikukoさん
心温まるお言葉、ありがとうございます。
肉体は無くなっても、一緒に作った思い出は一生残るものですよね。私も母との思い出を大切にしたいです。
ただ生きている間にしてあげたかったこと、言いたかったことがいっぱいあって、今更後悔しても遅いのですが、やっぱり心残りです。
Ikukoさんもお母様が生きていらっしゃるうちに、出来るだけ親子孝行をしてあげてくださいね。
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